2014/04/25

愛(隣人愛)。。。
マザー・テレサ書簡集を凌駕するヴェイユ哲学

[キリスト教] ブログ村キーワード
シモーニュ・ヴェイユ
Simone weil
::翻訳本初版定価800円程度のマザー・テレサ『書簡集―平和をもたらすために』(片柳弘史訳 全199ページ 2003/12)が、今や古書店の世界で一万円から一万五千円で取引されていると聞く。再販されない、となぜかしら確信する事情があっての高騰であろう。

英語ペーパーバック版(416ページ)の"Come Be My Light"は1,400円台で安価。ページ数がかなり違うので、別物かもしれないが、何か匂いますねぇ。。。。

その点についてはまた他日触れることにし、さて、

ユダヤ系フランス人女性哲学者・思想家シモーニュ・ヴェイユ(1909-43)の断章を扱うのは、これで二度目となる(→『「永遠」って何?何?何?(2) 2012.12.24』)。

ペラン神父の紹介でギュスターヴ・ティボン宅に1941年8月に寄宿し、二・三か月ほど農作業に従事するも、翌年五月、ドイツ軍のフランス全土占領を目前に両親とともにアメリカへ亡命。その間際に彼女は、ペラン神父には洗礼拒否の弁明書を、またティボン氏には数冊のノート(カイエ)を託している。

彼女の名を知らしめるに大きく貢献したと思われる田辺保訳の『重力と恩寵 『カイエ』杪』(ちくま学芸文庫)は、託された彼女のノート(カイエ)の一部をティボン氏が相当に編集し手直しして出来上がった底本からの翻訳本となる。ノート全体の忠実な全訳復元は、『カイエ』としてみすず書房から分冊出版されている。ヴェイユ研究者が通常参照するのは、原本はもちろん、後者の邦訳のほうである。(以上二段、「訳者(田辺保)あとがき」・「年譜」とギュスターヴ・ティボンによる「解題」参考)

少しまとまった論稿として『根を持つこと』が岩波文庫から、また個人的に関心を強く抱いた『前キリスト教的直観』が法政大学出版局から刊行されている。その他数冊ほどの翻訳本があることにはあるが、各社の出版事情にばらつきがあるため、系統的に読もうとされる場合には若干の注意が必要かと思われる。

今回は標題にあるように、キリスト者でなくとも人間であるかぎり避けては通れない大きな主題「愛(隣人愛)」を、キリスト者にはならなかったユダヤ系フランス人の彼女が、健康にまったく恵まれずしかも根無し草のように不穏な生き方を時代から強いられるなか、どのように感じ、思索し、捉えていたのかについて、そのいかほどか癖のある断章だけを頼りに(以下すべて田辺保訳)、信仰者・非-信仰者のくだらぬ垣根に誑(たぶら)かされることなく、読者の皆様方とともに勇を鼓して、夭逝の天使ヴェイユから学んでみたい。

☆☆☆

さっそく、次の断章をご一読いただこう。前後に文脈はない。
愛は、わたしたちの悲惨のしるしである。神は、自分をしか愛することができない。わたしたちは、他のものをしか愛することができない。(『重力と恩寵』「愛」の章より)
全三文。難しい熟語・語句はこれといって見当たらない。いかがであろうか。

一度読んだだけでは、何のことかまったく分からないのが普通。。。よかよか。

「分からない」という場合、およそ次のような問題の関与が推定される。(この箇所スキップしてもよし)
●資料それ自体の問題 
語・語句の難度が高い。→辞書・事典類でほとんどは解決する。
語法・文法レベルでの誤解。→口語文法は義務教育内!
文内外の論理関係(推理形式の法則的な連鎖)が見えてえこない。→基本的な推理形式は現代風までを視野に入れても五つ六つといったところ。恐れないこと。野矢茂樹『入門!論理学』(中公新書)程度で十分。
意味の反発やねじれが起きている。→作者の意図的なものが非常に多く、逆に解釈の取っ掛りになりやすいのでこだわりを持つこと。
レトリック(表現技巧)に関するものは、ほとんど引き立て役。「何」が「どのように引き立てられている」のかが感じられればOK。場合によっては無視してもよし。 
●読み手側の問題
先入見があらゆる解釈の最大の阻害要因。
・「隣人愛」と聞いて『あっ!それって「善いサマリア人」の?』といったステロタイプの思考回路を一度疑ってみる。
解説書などを絶対読まない。最初は自分の体験・経験・見聞・感性だけでがんばってみる。
常に「問い」を発するポイント発見に貪欲であること。「問い」続ける限り「解釈」は風化しない。「問い」が出なくなると「解釈」が止まり、やがて思考も止まり、心地よい眠りと都合のよい従順だけが残る。夢の中を天の国と妄想し始める。
教理教義(要は「使徒信条」)が解釈を先導していないか常に敏感であることが、信仰で苦しまないコツ。
一回読んでサッパリ分からなくても、慌てちゃあダメ。

深呼吸するように与えられた三文全体を包み込みながらしばらく眺めてみる。。。すると、
主要命題(S)何々は-(P)何々である)←{根拠1(S-P)+根拠2(S-P)}
三文がそれぞれこのような関係(論理構造)になっているのがなんとなく分かってくる。

☆☆☆

ここからは個別攻撃。

主要命題は少々手ごわそうだ。ここは遊撃戦スタイルをとり臨機応変に根拠1・2あたりからの奇襲攻撃が無難か???
根拠1 神は、自分をしか愛することができない。
ここで「問い」を発するのだあああ!
「ドウシテ自分シカ愛セナイノカ。神ナノニ?」
そうそう、その調子その調子。そして自問自答する。

「イヤ、待テヨ。デキナイノデハナク、自分ダケハ愛セルノダ。」
「ソウカ、ト言ウコトハ、デキナイ、ハレトリックダッタンダ。ヨシ!」
「ソウスルトダ。。。Anサンハ、レトリックハ引キ立テ役ダ、ッテ言ッテタガ、一体何ヲ引キ立テヨウトシテイルノダロウ?ムムッ。。。」
少し頭打ちになりかけたが。。。

「ソッカ!自分ヲシカ、ッテ書イテアルジャン。コノ限定ヲ強調シテルンダヨキット。ダッテ、自分ダケジャナク他ノ者ガソバニイタラ、神デアル自分カラ見テモ、ソバニイル他ノ者カラ見テモ、ドチラモ同ジ相対的ナ存在ニナッテシマウジャン?コレジャア、絶対的絶対神ガ相対的絶対神ニ格下ゲダヨ。ヴェイユハ、(絶対的絶対神)ガ(相対的絶対神)ニ世俗化サレテイル傾向ニ抵抗シテイタンダヨキット。ナルホドナルホド。」
「コレデ根拠2モイタダキダ!」
Anのおせっかいなハイレベルアドバイス: 
「自分をしか愛することができない」というヴェイユ特有の表現は、なにかが不足・欠乏していることを表現したものではまったくなく、見えも聞こえもしないが、それだけでまったく充足している即自的何かあるいは力(ちから)をあえてそのように表現したものとも考えられる。 
換言すれば、意識作用(ノエシス)で意識対象(ノエマ:イマージュ・表象・想像・妄想・幻想等)を構成するずっと以前の存在状態に対応しており、ミシェル・アンリ(1922-2002)が大作『現出の本質』(1963)においてしきりに強調した「自己経験(自己が自己を絶対的に経験することで不可視・不可触)」に近い即自的存在様式が自我分裂する寸前の動態を直観したものと思われる。したがって当然、ハイデガーの「存在者」に対する「存在」にも対応しており、その後の現象学一切に連動する可能性を高く保持する驚くべき洞察であると思われる。ただ前段(カタカナ部分)までがなんとなく分かれば、「十字架の現象学」大学はトップ合格でござる(笑)。
☆☆☆
根拠2 わたしたちは、他のものをしか愛することができない。
根拠1と比べると、文構造が明らかに対句(ついく)構造(統語配列は同じで配当された言葉の意味・価値等が反転する)になっているのが分かるため、解釈の初動作に困難をきたすということはないと思われる。「わたしたち」とは、改めて言うまでもなく人間の総体的表現である。

上述したが、わたしたち人間を語るうえで「自我分裂」の問題は、たとえ人間に関与するいかなる機能を議論しようとも、避けて通ることは不可能である。「自我分裂」とはそれほどに重要なアイテムになる。

「自我分裂」を分裂として相対的構造の中で相互に照らし出すデヴァイスあるいは生命機能とは何か?フッサール以降の現象学の沿革に従って述べれば、これはもう「意識作用(ノエシス)」の実に多様な驚くべき予測のつかぬ動きである、としか言いようがない。「意識対象(ノエマ:物自体の仮構仮象であったり、意識が混濁・混線して表現される幻聴、妄想、幻覚、錯覚などなど)は、その恒常的な当面は安定した状態で同期上映されているシネマのようなものである。

わたしたち人間は、人であれ事物であれ、他者他物を際限なく規定しなから同時に規定されもして、その生命活動を維持している。この内界と外界を縦横に出入りするノエシ-スノエマ構造は、言語はもちろん、知覚・情動・衝動・欲望・本能などに絡まれながらさらに濃密で高機能な働きを獲得し続けるものである。

したがって、自我分裂する以前の内的時空間、つまり絶対的絶対神のディメンションに極めて類似した、しかしまったく異質な存在の場(あるいは層)においては、意識のノエシス-ノエマ構造が機能せず、そのために「みずから」が「みずから」を愛すること(自己による絶対的な自己経験)など、統覚自我の確証が得られない限りとこしえにできない、ということにもなる。

まさにヴェイユの言うとおりである。

このままの状態では、絶対的絶対神と人間が交差する点どころか次元そもそもがどこにもない、ということになってしまうのだ。もちろん同じ星の地表に思い思いに触れながら。。。ばらばら。
愛は、わたしたちの悲惨のしるしである。
まさに「悲惨」以外の何も残されていない。「悲惨」とは、見ておられぬほど惨めで痛ましい様のことである。

むしろそのことこそが、「愛」を思惟し語るヴェイユの若くして底を知った短い生涯にいわば啓示されていた再生可能性(「エゼキエル書」37参照)であり、我が命を「活=生かさむ」がための渾身のメッセージのはじまりを息絶え絶えに告げる徴(しるし)であり、ささやかながら路傍に倒れた人間の耳をつんざくにはじゅうぶんな鐘の音でもあったのである。

以上ふたつの交わらぬ対句的根拠が、主要命題の悲惨をボトムに貶(おとし)めたのである。彼女への評価は、おそらくこのあたりで分かれるのであろう(注)

(注)ヴェイユが採用した対句構造に、西田幾多郎(1870-1945)氏が晩年盛んに使用したキーワード「逆対応」との類縁性を指摘することもできないわけではないのだが、ハイデガーと禅宗の関係が話題になった時もそうであったように、(インタヴュー取材に対する社交辞令的なご本人の言及を真に受けた)どこかしら児戯のような議論に堕する傾向がある。近年では、西田幾多郎氏のみならず鈴木大拙氏をも果敢に取り込んだ今村純子氏の『シモーヌ・ヴェイユの詩学』(一橋大学大学院博士号取得論文 慶應義塾大学出版会 2010年)などが注目されるが、わたし個人としては、それぞれが独自の内在的な思惟を展開してきた途上において、たまさかよく似た軌道を描いただけのものに過ぎないとむしろ抑制的に考えている。研究者ならば、販路の喧騒に耳をそばだてることつゆもなく、いま少し地道なテクスト・クリティークと精緻なテクスト解釈に、古色蒼然たる風貌と学者魂と確実な仕草をもって専心して頂けたらなあと、これだけ一億総ライターの時代ともなれば、そう思いたくもなってくるのだ。ご理解賜りたい。

☆☆☆

「悲惨」の種明しはここからである。いま少しご辛抱願いたい。

ヴェイユはこうも語っているのだ。
他人を自分自身のように愛するということの中には、対照的に自分自身を他人のように愛するということが含まれている。(同書同章 下線An)
もちろん『聖書』を意識した表現である。

今回は、イエス自身の言葉(の伝承)であったかどうかの議論は大事ではない。よしんばイエスの言葉でなかったとしても、以下の展開になんらの影響もない。なお、上掲引用前半部の初出は「福音書」ではなく「レビ記」である。

むしろ「愛」を思惟し語るヴェイユの真価を決定づける言説であるかどうかを見極めることにこそ、今回の大事がある。『聖書』にキリスト者以上の深い理解を示しながら、しかし『聖書』を超えざるをえなかったヴェイユの過剰な精神の舞踏はもちろん、その預言者的資質などにも、信仰者・非-信仰者を問わず、一度は関心を抱いて頂ければなと思っているだけである。

さて最初に引用した断章の段階で、ヴェイユが(根拠2 わたしたちは、他(自分以外)のものをしか愛することができない。)と考えていたことは確認することができた。

ところが今引用した断章では、「自分自身を他人のように愛する」(下線An)ということを、内容はさておき、手のひらを返すようにヴェイユは認めているのだ。ただし聖書に登場する各表現に共通するのは(レビ記19. 18 マルコ12. 31 マタイ19. 19/22. 39 ルカ10. 27 ヤコブの手紙2. 8 ガラテヤの信徒への手紙5. 14 ローマの信徒への手紙13. 9)、「他人を自分自身のように愛する」(下線An)という箇所である。つまりヴェイユは、元の一節と鏡に反射させた一節との両方を、ついに見届けることのできなかった読者に提示していたのである。

ヴェイユが推理的に追い詰められて逃げ出したかのように見えるが、彼女も『聖書』の記述を前提にしたうえで「他人のように」(下線An)という語句を畳み込んではいるがそっと『聖書』に差し戻してもいるので、それは見当違いであろう。

はたして、「他人を自分自身のように愛する」ことのなかに「自分自身を他人のように愛する」ことを凹凸のようにして仕込んだ彼女の意図は何だったのであろうか?

結論から申し上げたい。

そのひとつは、
ヴェイユは、被造物(beings created by God.)意識(知覚・感覚)を他者・他物との紐帯を担保する人類共通の基盤として最重要視した。
もうひとつは、
その裏側で不安定になってきている宗教的紐帯(ちゅうたい)を、義と公平の実践を通しリカバリーし続けようとした。
残念なことだが、いわゆる「隣人愛」という術語が使用されているコンテクスト(文脈)は、わたしたちが想像している以上に複雑多岐に分枝してしまっており、一義的な釈義ではカバーしきれなくなっている。まさに川床に眠る砂金をザルで掘り当てるほどの困難さを特に信仰者は感じてきている。もはや「善いサマリア人」だけでは、一片の砂金も採取できない、そんな時代にすでにわたしたちは足を踏み入れてしまっていることに、気づき始めているのだ。

問題のコアはどうやら、自我分裂を根拠とする「他人(他者)的自己」とヴェイユが深く思索していた「他人」との違いにあるようだ。

いわゆる自我分裂の現象過程には、「(絶対的)自己経験」といった相対化を拒否する前史が横たわっている。その不可視不可触な「(絶対的)自己経験」が、存在論的ビッグバーンとでも呼称すべき出来事を通して能動受動一切の機能を司る脳の生理機能から半ば自律したかのように偽装された自我(他者的自己)を成立させ、さらにその自我分裂(衝動・情動・知覚・意識する自分とされる自分)の活動を総体として再度対他化する統覚自我の登場をもって、わたしたち人間はそれぞれなりの自我分裂の循環に依存しながら、恒常的で安定的なとりあえずの「人格」というものを獲得しているのである。

一方ヴェイユが直観していた「他人」とは、そのような自我分裂の証しとなる「意識」の「対象」として再構成された「他人的(しかし)自己」とイーコルではないのだ。その「他人的自己(ノエマ)」への愛が「自己愛」にすぎないことをヴェイユは百も承知なのだ。それはいとも簡単に憎悪に変容し、信じられないほどの攻撃性・暴力性・排他性となってみずからを昇華せずにはいられないものである。しかも極めて巧妙・狡猾な仕草を性癖としており、演出性の多重人格も出現しやすいため、判別・警戒に多くの支障をきたす。

だからこそヴェイユは、わたしたち人間が「他のものをしか愛することができない」存在であるのなら、すなわち「他者的自己」を愛して過度な自己愛に陥るのなら、極めて不安定で危険に満ち満ちた反逆的な意識対象としての自己を「他人」と錯覚することを自覚的に停止し、そのノエシス-ノエマ構造の空位に、まったくの「他人」であると感じるほどの「被造物」(性/感/観)を受容あるいは体験し、自我分裂し続けるその「他者的自己」を絶妙のバランスで制圧し続けることの重要性を、不穏な時代を生きながらにしてなお、義と公平に満ちた世界の到来を預言するかのごとく頑なにも主張したのではなかったか、とわたしは思っている。

ヴェイユの思索のどこにも矛盾は起きていない。

「被造物」とは、「絶対的自己経験」からあくがれ出づる生命現象であり、その所有権は「絶対的自己経験」それ自体にある(出エジプト記3. 14)。しかもこの「被造物」には、自他の区別があるようでいて根源的には実はなく、いかなる局面においても「被造物」としてのアノニマスな公平が守られている。それでもわたしたちそれぞれが日々あらゆる局面で不公平を感じ苦しみまでするのは、上述した自己愛を受け過ぎた「他者的自己」の執拗な干渉と反抗のせいなのである。

ヴェイユは、次のような問いを発している。
不幸があまり大きすぎると、人間は同情すらしてもらえない。嫌悪され、おそろしがられ、軽蔑される。同情はある段階までは降りて行くが、それより下へは降りて行かない。愛がその下へまで降りて行くのは、どうしてだろう。(同書「重力と恩寵」の章最終断章 改行無視)
「同情」は自己愛の変容である。

「それより下へ」下降することができるのは全き「被造物」になった「他人」のみである。その「他人」が、これまた全き「被造物」に化した「他人」に下降していくのである。「神の似姿」を証しする人たちは、そういう無名の人たちなのではなかったか。

わたしはかつて、全国有数の日雇い労働者と簡易宿泊所(ドヤ)の街、大阪は西成の愛隣(あいりん)地区で七年間ほどを鳶職人として生きていた。鉄骨の柱を親石にボルト締めし、その柱によじ登って対向する柱との間に梁(はり)を備え付ける。そうして仮締めをした不安定な梁の上を風に吹かれ伝い歩きしながら命綱をはっていく。そんなことを幾度も幾度も繰り返しながら上昇し、床も壁もないそれぞれの階で命が削り落とされていく音を定刻まで聞かなければならない、そんなとんでもない仕事であった。なぜこの職業を選んだのか、とたまに尋ねられることもあったが、「死ぬ勇気がなかったから」としか最後まで答えなかった。

一日の仕事が無事終ると、茶封筒に入れられたその日の命の対価をいただく。薄っぺらな封筒を鷲掴みしたまま挨拶もせず、タオルでねじり鉢巻きをし、汚れた上着だけを今頃の季節なら七部袖の透けるような鳶シャツに着替え、腰道具を入れたバッグを肩にかけて、連れ立ってきたもうひとりの鳶職人と今度は肩で風を切りながら、そそくさと駅に向かう。駅で一杯、車中で一杯、ここは天国新今宮駅下車で一杯、そして行きつけの屋台で一杯。それからドヤ(簡易宿泊所)に戻る。路傍には大勢の人間が、ここでもそこでも、一様の表情をしてうずくまっている。

わたしの鳶装束のポケットには小銭がいつもいっぱい。ドヤに到着するまでその小銭を少しずつ彼らにばらまく、と言うより酔った勢いもあってか、放り投げる。彼らはただの「乞食(こつじき」ではない。わたしも彼らを見下していたのではない。明日をも知らぬ我が命。彼らとて同じなのだ。彼らは彼らなりに達観しているのだ。いつ立場が逆転してもここでは何の不思議もない。長くその地区で生活していると、そういった無言の了解が成立する。本名も素性もお互いに分からない。詮索もしない。しかしどこか似ているのだ。皆、死にきれなかった人間であったからであろう。見ず知らずの人間に小銭をばらまくのは、この世界では、働くことが出来た者の当然の義務だ。この街は公平に満ちていたのだ。

ヴェイユは先ほどの「問い」に自信を持ってみずから次のように応えている。同書「愛」の章からふたつの断章を併記させて頂くことにする。改行は無視した。
よろこびと苦しみとが、同じくらいの感謝の思いを生じさせるならば、神への愛は、純粋である。 
幸福な人において、愛とは、不幸のうちにある愛する人の苦しみをともに分かちあいたいとねがうことである。不幸な人において、愛とは、愛する人がよろこびの中にいることを知るだけで満たされた気持ちになり、そのよろこびにあずかることなく、あずかりたいと望むこともしないことである。
これほど値(あたい)高い公平が「被造物(beings created by God.)」性/感/観の体験あるいは獲得から生まれて来ないとすれば、いったいこの地上のどこのなにから生まれてくると言うのであろうか!
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