2014/04/29

ニーチェ箴言散策集・私家版 (22)

[ニーチェ] ブログ村キーワード
ニーチェ箴言散策集
Friedrich Nietzsche
『ニーチェ箴言散策集』(2008.02起稿 2008.07脱稿 Mr. Anonymous)


今回141節の読みどころ
「性」の問題もなんのその。慧眼の士、ニーチェ!
全既刊号はカテゴリーからどうぞ。⇒⇒⇒

原文・翻訳からの引用は「報道、批評、研究目的での引用を保護する著作権法第32条」に基づくものです。ドイツ語原文は"RECLAMS UNIVERSAL-BIBLIOTHEK Nr.7114"、日本語訳は木場深定氏の訳に、それぞれ依ります。

)))141節(((
Der Unterleib ist der Grund dafür, dass der Mensch sich nicht so leicht für einen Gott hält.
人間が自分をそう容易に神だと思わないのは、下腹部にその理由がある。 
++++++++++

。。。と考えているのは、じつはニーチェではない。
これは、「一神教(主義者)」を批判するための言わばパロディである。。。

とまぁこんな風にギョッとする視点から眺めて頂きますと、「下腹部」に終始する議論(が悪いと言うつもりはありませんが)の退屈さから、いかほどかは解放されるのではないかと思います。ニーチェ主義者を自称される方々の真贋(しんがん)鑑定にはもってこいの箴言のひとつかな、とも感じます(笑)。

当箴言に登場しています「人間」は、したがってこの地球上すべての人間というわけではなく、「一神教」を国家宗教に仕上げようとし、そして実際近年まで問答無用の勢いで仕上げてきた壮絶なヨーロッパに歴史内存在してきた「人間」、というものをニーチェは思い浮かべていたものと思われます。

さて上掲箴言中、「(自分を神だとは)思わない」という表現がありますが、ニーチェ的にはやはりここは「思わない」というように「意志する」と解したいところです。

そう解しますと、「(自分を神だと)思う」あるいは「(神の意志・計画に近づこうと)思う」というように「意志する」ことも同じくできる、という理屈も成立することになります(注)
(注)「諸君は禁欲主義的理想の三つの大きな飾り言葉が何であるかを知っている。清貧と、謙遜と、貞潔と。」(『道徳の系譜』第三論文の八)
つまり「一神教」の下に生をいただいた限りは、神に近づくことを「意志」しようと神から離れることを「意志」しようと、いずれの「意志」も、すでに「一神」を始原に抱く「(キリスト教の)大きな物語(堕罪物語=原罪論→贖罪論)」から押し出された同音異義語ならぬ「同義異音語」なのだ、とニーチェはひとりごち、深いため息をついていたように感じられます。極東を生きるわたしたちが、西欧人の憂鬱や孤独をなかなか実感できないことの理由は、この出口のなさといった宗教的な深い閉塞感にあるのではないでしょうか。

ニーチェは、『道徳の系譜』第二論文において次のように語っています。
神に対する負い目、この思想は彼にとって拷問具となる。彼は自分の固有の除き切れない動物本能に対して見出しうるかぎりの窮極の反対物を「神」のうちに捉える。彼はこの動物本能を神に対する負い目として(「主」・「父」・世界の始祖や太初に対する敵意、叛逆、不逞として)解釈する。[・・・中略・・・]それは精神的残忍における一種の意志錯乱であって、全く他に比類を見ることのできないものである。[・・・中略・・・]この人間獣が行為の野獣たることを少しでも妨げられるとき、奴は何を思いつくことか!(木場深定訳)
特に信仰共同体の指導者・先導者たちは、とんでもない無知蒙昧から、いつの世も凡そ「性」に関わる問題情報の多くをクローズドにしてしまい、誤った指導や介入、隠蔽や圧殺、さらには露わな人権の蹂躙や凌辱・虐待行為、ついには歴史からの抹殺に至るまで、間接または直接にも関与してきました。

今年2014年は、教皇フランシスコのバチカン改革にも相当の拍車がかけられてはいるようですが、内外の反勢力の動向も流動的で、一度巻き上げられた緞帳(どんちょう)がまたすぐに巻き下ろされるという可能性も、じゅうぶんに想定されます。それほど宗教、就中キリスト教の西欧精神ならびに文明・文化への浸透は隈なきにわたり、しかも暦を独占するほどに長過ぎたということなのです。どの暦をめくってみても血の匂いがします。愛が大きく深かっただけに、憎悪も半端じゃなかったということでしょう。その風土から日本のキリスト教教界をのぞめば、まるで蝉の抜け殻のようにも見えてきますが、いかがでしょう。

性的少数者(sexual minority)の存在はもちろん、性的嗜好(sexual preference)を含む「性愛(sexual love)」の事実・実体、そしてそこに随伴あるいは同伴する深刻な精神症状のアスペクト(諸相)や連動する諸事件、といった複雑で深刻な主題群は、一般社会のみならずどの宗教どの宗教家の歩みにあっても、メジャーな主題として扱われることはありませんでしたが、近年ようやくにして議論の俎上(そじょう)に載るようにはなってきたようです。

信仰と性愛とがこんがらがってにっちもさっちもいかなくなり不倫した離婚したという話などありえない!と思っておられる幸いな信仰者の方々が多いようですが、なんのなんのどこにでもころがっている話ですし、事実長い信仰歴を経て来られたご夫婦間の齟齬ばなしなどに耳を傾けながら、性的な問題全般へのあまりの理解のなさに驚かされることが間々あります。御両人とも、齟齬の背後に深刻な性的問題が横たわっていることには、まったく気づかれておられません。ただの不信仰のレッテルの貼り合いで終わっているようです。心貧しいとは、こういうことなのではないでしょうか。

凡そ宗教と名のつくもの、新旧を問わず、タブー(禁止命令=教義教理)を背もたれにして成立しています。システムあるいは組織としての宗教にはある程度必要なものではありますが、個人あるいは個人間の信仰には必ずしも必要なものだとはかぎりません。むしろ夫婦間や恋人間に本気でそんなものを持ち込むと、メンタル面のここかしこにおいてお互いに大変な問題を引き起こし、場合によっては取り返しのつかないことにもなりかねません。

ニーチェが言うように、「下腹部」の備わっていない人間など通常はいないわけです。

問題は、「下腹部」にジンボールされた「性」の主題を(他の生理機能・生理現象・生命現象すべても例外なくそうなのですが)動物的本能=(パウロの口癖である)霊に対する肉=100%悪霊又はサタン、といったデカルトに始まりカントで完成をみた古色蒼然たる二元論(二者択一)的判断のカルト的転用で簡単に処理したりしないことが大切です。

二元論は思惟の亡骸、ただの形式にすぎません。百歩譲っても、頭の中のリプレゼンテーション(表象)のひとつです。実際に存在するもの自体ではありません。

遅々として進展しない現代思想でしたが、ようやく、ブラックホールが誕生したと推理されている始原的「爆発」寸前のモード(存在様式)を思想的に「表現できる」ところまでやってきています。きっかけは他所でも少し触れていますが、主にハイデガー哲学の継承者ミシェル・アンリへの遅ればせながらの評価の高騰です。

これまでアポリア(難問)に分類されていた心脳問題や意識の半自律性の問題等が、これまで以上にくっきりと描き出される契機が与えられたと思われます。「性」の問題もそのような大きな枠組みのなかでこそ光をあてられるべき主題だと感じます。人間の「性」は、子孫を維持するためだけのものではまったくありません。人間存在そのものの機序が、そのようには構成されていないのです。

こころの問題が解決しない(→心の最前線)。自殺念慮者が去って行く(→教会は自死(自殺)念慮者を救えるか?)。「性」の主題が満足に論じられない等々、もう日本の教会に任せる主題はありません。

わたしの思いはいつも同じです。

はやく教会を売却し資金を凍結して未来に備えるべきです。礼拝は会議室でもどこでもできるはずです。ネットと連動できればなおすばらしい。牧師も平信徒に戻るべきです。一人一人公平にみずからの信仰を語り継げば言いわけです。そうすれば莫大な人件費など必要なくなり、経費は場所代だけで済みます。すべてがそうだとは言いませんが、明らかに分派の黒幕となってきたキリスト教系学者は、本来の研究に専念挺身すべきで、集いの場所ではただの信徒以上の不可解な行動をとるべきではありません。また個人献金や寄付一切を廃止すべきです。これも権力の発芽に連なります。必要なのは、信仰を求める人と聖書と会場費の僅かな分担金だけです。過度な宣教・伝道も不要です。メモその他一切の言行記録を残さないことも、人一人一人の真実がそれぞれに守られるためにはとても重要なことです。

ごく僅かな点だけを指摘しましたが、イエスが生きていたならきっとそうしたでしょう。

要は法人格を返還し、権力(垂直)型でない衛星(水平)型の自助グループモードに切り替えることが求められています。日本のプロテスタント教会が選択すべきそれが最善の道であり目的地だとわたしは思っています。それが「持続する精神」の本義であったはずです。

(2008年06月10日付旧記事再読するも、露ほども意に満たざりしかば破棄してき。)

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