2014/03/01

贖罪論批判・改訂版

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自分の写真::ギリシア哲学(形而上学)の最高傑作と表現してもよいほど見事に刈り込まれた「使徒信条(THE Credo)」であるが、凄惨な全体主義的展開の元締めとして人類史を切り裂いてきた事実の数々を思うと、その元凶たる「使徒信条」をいまだ唱和して懲りぬ教会に再度行こうなどという気持ちは、もうわたしのどこからも湧いてはこない。もちろん健康上の理由もいささか関与してはいるが。

受洗しながらにしてわたしのように礼拝はもちろん、その他一切の教団・教派・教会行事等に参加しない方々は、ネットの感触から判断する限り想像以上に多そうである。教会難民・教会ジプシーという言葉が出来て久しくもなるはずだ。事情は各人さまざまであろうが、しかしその実態はよく分かっていない。

実態がよく把握できない理由は簡単である。

アンケートや調査依頼に対する教会側の拒絶が半端ではないため、若い研究者が育たないのである。どのプロジェクトの統計調査も、不十分な結果であることを断りながらの苦肉の策を講じている。そんな不完全なレポートあるいは論文など、学会レベルでは通用しない。結果、教団おかかえの出版局からの我田引水的な統計がまかり通って一件落着してしまう。宗教法人として税法上の優遇も受けており、積極的に動向をディスクローズすべきであるのに。。。信仰の先導者としては、すこし横柄すぎるきらいがある。

さてわたしをも含む一般のキリスト者がなかなか人に明かせない苦悩には、極々プライベートな問題から聖書解釈に至るまで、じつに多様なものがあるであろうが、今回は「贖罪」を批判的に検討しながら古語「原罪」の本性にすこし手を伸ばしてみたい。

イエスの「磔刑(たっけい:十字架刑)」がなぜイエス以外の人々の贖罪(しょくざい)に連動するのか、大抵のキリスト者は一度はそこで立ち止まる。目を輝かせてその点を語り讃美?するには、真偽のほどはさておき、それ相当のキャリアが要るのだ。むしろ窮屈にも自縛的に苦しまれておられる方のほうが圧倒的に多い(*祈祷会などの「証し(体験談)」に基づく)。

結果から申し上げると、日本のほとんどのキリスト者は「十字架の贖罪」を実感していない。つまり、実感することができないそのことを苦しんでおられるのだ。逆に申し上げるとこういったタイプのキリスト者は、「十字架の贖罪」感を愛が憎しみに変わるほどにまで強く欲求する方々である。その欲求自体はもちろん自然な発露である。わたしにも当然ある。それだけみな救われたいのである。

しかしながら欲求が強すぎると、「十字架の贖罪」そもそもの吟味がとても甘くなる。ほとんど疑うことがない。「贖罪(論)」に問いを発することを忘れて、「贖罪」感を抱けないことに疑問を投げかけていること自体、本末転倒なのである。この紙一重の違いに、キリスト者はなかなか気がつかない。なぜか?

そのように「訓育」されたからである。

何によってか?

キリスト教憲法でもありキリスト者の思惟の規範文法でもある「使徒信条」に終始牽引される牧師説教によってである。

だから苦しむのだ。教会に長くいるとそうなる。そのうちどうでもよくなる。ぼーっとした気持ちになり心地がよくなってくる。そして会堂に来ると思考が半ば停止するようにもなる。そうしてサロン化し老人クラブ化する。それが日本の大半の教会の実情であろう。牧師にとってはそのほうが都合がよい。だから牧師はみずからの周辺を金銭含んで居心地の良い環境やシステムや人事に改造するのに必死になるのだ。その先鋒に役員会等が位置する。

若者???

彼らはもっと楽しいカーニバル的な教団に集っている。リバイバル派然り、ペンテコステ派然り。。。若者だらけである。コンサート会場さながらである。賛美歌かロックか、もはやわたしには区別がつかない。

そもそも「十字架」とは、メタフィジカルな推理がそこから発動する思惟の起点などではない。それはイエスの自己示現の最終端末であり、わたしたち人間存在の如何ともしがたい根拠性(機序)を照射する「ともし火」にも匹敵する意味をじゅうぶんに獲得したものであった。今なおそうである、とわたしは感じている。それ以上でも、それ以下でもない。

わたしは「罪」や「原罪」についての考えを求められたとき、いつも次の一節の解釈を逆に質問者に訊ねることがよくあった。

イエス(と思しき人間)の原-体験は、イエスに次のように語らせている。
for there is not anything hid that may not be manifested, nor was anything kept hid but that it may come to light. (Mrak4.22, from YLT)
隠れながらにして現れないものなどはなく、明るみに出ずして秘められたままのものもまたない。(訳An)
ロバート・ヤングにより' light ' と逐語訳されたギリシア語は、中性形容詞 φανερος(ファネロス) の単数対格 φανερον(ファネロン) で、φα- を語根としている。

この語根 φα- からハイデガーは、「現象(Phänomen)」の本義を次のように復元している。
Der griechische Ausdruck φαινομενον, auf den der Terminus ≫Phänomen≪ zurückgeht, leitet sich von dem Verbum φαινεσθαι her, das bedeutet: sich zeigen; φαινομενον besagt daher; das, was sich zeigt, das Sichzeigende, das Offenbare, φαινεσθαι selbst ist eine mediale Bildung von φαινω, an den Tag bringen, in die Helle stellen; φαινω gehört zum Stamm φα- wie φως, das Licht, die Helle, d. h. das, worin etwas offenbar, an ihm selbst sichtbar werden kann. Als Bedeutung des Ausdrucks ≫Phänomen≪ ist daher festzuhalten: das Sich-an-ihm-selbst-zeigende, das Offenbare.; SEIN UND ZEIT, § 7 A. Der Begriff des Pänomens
「現象(Phänomen)」の語源となるギリシア語表現ファイノメノン(φαινομενον)は、みずからがみずからを見せる、という意味の動詞ファイネスタイ(φαινομενον)から派生している。ファイノメノンが、みずからを見せるみずから、いわば自己顕現してくる当のもの、あるいはあらわになってくるおのずからのもの、などを意味するのはそのことによる。ファイネスタイ自体、日のあたるところにもたらす、明るみに据え置く、といった意義を有するファイノー(φαινω)の中動相(再帰的形態)である。ファイノーは、光や明るみ、つまりそのなかであるものがあらわになり、みずから自身に即して看取られるようにならしめるものを意味するフォース(φως)と、語幹ファ(φα-)を同じくしている。以上のことから、「現象」という表現の意味として執念されるべきは、みずからをみずから自身に即して見せるもの、つまりあらわになってくるもの、ということになる。(訳An)
ハイデガーの語源分析最大の功績は、現象の「再帰性」を指摘したことにある。

「再帰」とは、存在論的に申し上げれば、「みずから(存在)」が「みずから(存在者)」の目的となって「みずから(存在者)」についての解釈を、自覚的にであれ無自覚的にであれ、はたまた真であれ偽であれ、同期更新しつづける、といった即自的な自己経験の循環様態それ自体を指示したものである。他者についても、同様である。

そもそもハイデガーの思索には、推理(形式)がない。認識の前提として措定されてきた静止的な「対象としてのみずから・対象としての他者」、というものがないのである。

したがって「現象」とは、このような刻一刻の循環機序において実行される忍耐強い問いかけと洞察に応じてしかその姿をあらわにすることがない、いわば秘匿された「あるもの」の生い立ちとその履歴一切である、と換言することもできよう。「現象」は概念化を許す「事象」ではないのである。

イエスの十字架を「贖罪」とする考え方が事後陳述であるかぎり、十字架はただの「概念」であって「現象」とは言えない。

つまりこういうことである。

イエスの十字架には、「正面」と「背後」がある。

「贖罪(である)」という陳述(命題)は、十字架の出来事を「正面」から事象として冷却し未知のものとして対象化する所作(推理)を先行させて獲得した思惟である。

ところが「福音書」(特にマルコ)には、「贖罪」に着地するはずの推理自体が欠如している。欠如しているからヘブライ的「福音書」でありヘブライ的『聖書』と言えるのである。

「旧約聖書」預言書をはじめとする雑多なメシア記述は、そのつどの固有の時代に待望されたメシアの範型、または類似した実際の顛末を伝承したものにすぎない、と読むのが自然であろう。「新約聖書」記者たちの引照がどこかしら稚拙で強引な印象を抱かせるのも、むしろイエスなきあとの原始教団内外の極度に逼迫した状況のため、と捉え返したほうが自然である。その限りにおいて、意味はある。最もギリシア的であったパウロの背理法(第一コリント15章等)ですら傷だらけであったのも、同じ事情による。

いずれにせよ「贖罪」とは、ルール違反の推理を強いられたパウロはじめ後代のヘレニストたちによる「大きな物語のはじまり」の意識とともに強く浮上してきたものであろうと思われる。

正当な推理の欠如した陳述(教理教義=大きな物語の屋台骨)は、国家権力に抱合されやすい。当然のことながら、過度の排他性と攻撃性を帯びる。世界の教会史が、如実にそのことを示している。

だからわたしは、十字架の「背後」に関心を向けるのである。

あるもの(十字架)の「背後」に関心を向かわせるためには、あるものを起点として無自覚に立ち上がってくる思惟の執拗な傾向に、強く抗いつづける必要がある。

その忍耐に担保されてはじめて、イエスの十字架は「(大きな物語の)起点」から「(真のユダヤ教徒イエスの)終点」に回帰する。つまりイエスの十字架は、最も立ち遅れた出来事でありながら、しかしすでにすべての「現象」の完了を告げてしまっている勇気ある自己示現の出来事でもあったのである。

たしかにイエスの十字架は、どこかしらへ旅立つためのあたかも出口であるかのように「叙述」されてはいる。がしかしそれは、たとえいかなる危機・希求があったにせよ、あくまでも「福音書」記者の事後的な思惟を介した原始的な浪漫主義の域を出ないものである。

イエスの十字架は、ただただわたしたちみずから「が」、わたしたちみずからの如何ともしがたい存在根拠「を」、わたしたちみずから「に」見せることを絶えず促して止まない「徴(しるし)」であったし、今なおそうであろうとわたしは了解している。

わたしたち人間の「如何ともしがたい存在根拠」とは、意識(認識)が捉えうる立ち遅れた時間と、意識(認識)では到底捉えられず、知覚よりもはやくに存在開示してしまう先立つ時間との「絶対的な誤差」のことである。

この「絶対的な誤差」が、個々人の苦悩のみならず、この世界の事象ならびに事象間のあらゆる齟齬・紛糾を自己産出しているのである。

先立つ時間は、どのような陳述をも許さない。その意味でわたしたち人間は、先立つ時間に対して全くの無力(powerlessness)である。

しかしそれは、言葉(陳述)としてそのように言える、というだけのことである。実際は、圧倒的な失望・圧倒的な絶望・圧倒的な危機の諸様態が、あろうことか、わたしたちに先立つ時間の正体を暴露する媒介なのである。

上掲のイエスの語りは、これほどに「如何ともしがたい存在根拠」の看取とともに、読み取られるべきものであろうとわたしは思っている。
隠れながらにして現れないものなどはなく、明るみに出ずして秘められたままのものもまたない。(同上)
モーセやイザヤも味わった「絶対的な誤差」が「絶対的な誤差」ではなくなるほどの体験なくして、このような極めてヘブライ的な語りが現出することはない。ローマの植民地下にあってユダヤ文化が急激に風化していたはずの時代の特性に思いを馳せれば、まさに奇跡的に書き留められたイエスの貴重な言葉であった可能性はさらに高まる。もちろん第一弟子ペトロの口承を通してである。

「使徒信条」の大きな物語のなかに福音の本義は、なかったのだ。

「罪」とは、「絶対的な誤差(存在者と存在との内的時間差)」が自己産出するものである。したがって生ある限り、いかなる「罪」といえども絶えることなどないのだ。もちろん購(あがな)われることもない。「福音書」(特にマルコ)に仄かに点滅するイエスの楽観は、そのような絶望的なレゾンデートルを通して獲得されたものであろう。

洗礼者ヨハネの水による洗礼を受けたイエスのパッチワークのようないきなりの描写が生命を帯びだすのは、そのことに読み手が気がついた時である。

信仰が「(その人に)現象する」とは、そういうことの体験ならびに経験化の過程全体を指すものである。

古代ローマの御用学者たちが創作したただの屁理屈「贖罪論」ごときで苦しむことほど、馬鹿げたことはない。

(以上は2012年4月12日の投稿記事の標題と内容に若干の修正を施したものです)

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