2012/11/17

キリスト教教派教団を斬る!実在論(der Realismus)

(以下の記事は、2011.02.03、に書かれたものです)

中道基夫氏(関西学院大学)は、「日本伝道論に関する書評」(日本基督教学会編『日本の神学』No.46、2007)のなかで、近藤勝彦氏ならびに山口隆康氏の著作に触れ、次のように述べられている。

いずれの著作も、日本基督教団の低迷した状況を生み出したのは、「一九六九年以後の日本基督教団は、当時全国的に見られた左翼運動・全共闘運動が教団に飛び火したのと、教団指導部の失態とによって『教団紛争』に巻き込まれ、それが長期化し」(山口・一六頁) たことに原因があると見なしている。もちろん、社会一般の少子化・高齢化現象も教勢がふるわない原因としてあげているが、教会内部の問題として過去四十年の日本基督教団の「伝道の危機」が大きな原因であるという認識に立っている。
 近藤は、この問題に対して、伝道の主体つまり教会内の問題としては日本の教会の根幹を形成する「信仰覚醒運動的エヴァンジェリカリズム・プロテスタント的敬虔」の弱体化によって教会の伝道のパイエティが希薄化したことを指摘し、プロテスタント的敬虔を活性化し、教会形成を主幹とする伝道的キリスト教を再建すべきであると主張している。 
中道氏は、「近藤や山口の指摘は的を射ている」と評価しながらも、しかし次のような「問い」をも同時に発せられている。 
そのような状況は、はたして教会の伝道のパイエティの弱体化によるものであろうかという疑問もおこってくる。教会が伝道しなくなったのではなく、人々が教会を離れていったのではないだろうか。その原因を、日本基督教団内の不協和音や日本人の問題として分析することも出来るが、むしろ原因は教会にあるのではないだろうか。それは教会が伝道してこなかったということではなく、人々が去っていく原因を自分の中に見いだせなかったということである。人々を伝道の対象として見る限り、人々は教会を身近な存在として認識するのであろうか。教会は人間不在の伝道を展開しかねないのではないだろうか。 
「答え」がつねに「問いの構造」に制約されることを喝破したのは、フランスの哲学者アルチュセール(1918-1990)であったが、この中道氏の連続的な「問い」返しは、その見事な範例となっている。

「書評」であることから、これ以上の叙述を氏は控えておられるが、しかしこれらの「問い」によって、「答え」がすでに氏の中で孵化してしまっていたことが分かる。


今回のブログタイトル「エピステーメとしての実在論(der Realismus)」は、その「答え」の一部をわたしなりに先取りしたものである。

元来「エピステーメ」という術語は、認識・学的認識・学・学問など、ニュートラルな意義で解されてきたものであるが(アリストテレス『形而上学』第一巻第一章 出隆訳者注(3)参照)、フーコ(1926-1984)の登場によって、その中性的な意義は瓦解することになる。

フーコは、わたしたち人間言語による近代(現代)知の全体が、どのようなものであれ、あるものを排除せずには成り立たない権力志向に先導されており、しかもその権力を受容せずには知の主体たりえない、という如何ともしがたい桎梏を暴露した人である。知は権力である、というのがフーコの言う「エピステーメ」である。タイトルは、そのフーコの解釈に基づいている。したがって、「知の権力としての「実在論」、ということになる。

「人々が去っていく原因を自分の中に見いだせなかったということである」、という中道氏の指摘には、深刻なものがある。

結論から申し上げると、伝道開始150年後のこの島国のプロテスタント教会の深刻の根は、「(神の)実在論」という閉じた知の全体に、すでに排除の論理と権力の先導性とが胚胎していたこと、このただひとつの現事実を、あろうことかそっくり見落としてしまったことにある。

その象徴的な事例を引用してみたい。


昨年6月14日に、日本基督教団大阪教会にて、「第39回 東京神学大学大阪後援会 キリスト教講演と音楽の夕べ」、なるイベントがあった。

講演者は、中道氏が上掲「書評」で言及された東京神学大学学長近藤勝彦氏であった。演題は、『「教会生活と伝道」―日本伝道150年を経て―』、となっている。1時間を越える講演であった(氏はその後も、同じ演題で全国行脚されている。視聴ご希望の方は、YouTubeからどうぞ)。

事前に配布されていたレジュメの『5、「新しい実在感」』冒頭を、氏はこう書き始められている。口頭でもほぼ同じであった。 
新しい伝道の時代に向かって、大きく転換すべきは「実在感」ではないかと思います。実在(リアリティー)とは何かという受け取り方が問題です。ごく素朴に言うと、目に見えるものだけが存在しているのではないのです。目に見えないけれどもはっきりと実在している方があります。 
会場にいたわたしは呆気にとられた。

実在論の系譜を検証されるのかと思いきや、出所の分からぬいきなりの実在神論であった。直後、このように。。。
この世界は神が創造された世界であり、神は超越的なお方として実在し、しかもこの世界に受肉した方として到来し、常に臨在し、とりわけ御言葉が聞かれ、聖餐にあずかる礼拝において臨在しておられます。・・・中略・・・。聖霊が働いて、私たちに信仰を与え、望みを与え、愛する力を与えてくださっています。聖霊を信じないと自力主義になって、忍耐や希望を持つこと(が)できません。困難な状況に耐えがたくなります。(( )内アノニマス) 
もう、どうにも止まらない。

そしてこう結ばれた。 
「神がわたしたちのためにおられる」「神が味方である」というインマヌエルの実在感によって、人間はどのような存在の脅かしや不安の中でも、霊的な守りの中にいると信じ、感じとることができます。これが重大なことで、そのためには、主イエス・キリストの出来事の中に何ものによっても凌駕されない究極の救いがあり、そこに神の実在の啓示が示されていると信じるのでなければならないでしょう。 
そこいらじゅうの言葉を切り取り、これでもかと言わんばかりに根拠なく貼り合せた、まさにフーコの言うエピステーメの末期的表現となっている。

和魂洋才も、ここまで誇示されては弁護のしようがない。


そもそも「実在(die Realität)」とは、「事物」を意味するラテン語 ' res ' に由来するものである(ハイデガー『存在と時間』第四十三節 原佑訳注、平凡社『世界大百科事典』2007年版参照)。

この「事物」自体の存在証明と、「事物」への認識とを目論んだ「実在論(der Realismus)」は、世界から超脱した主観という特権的な虚構のなかでの「<知による知の根拠づけ>という、それ自体無根拠な自己還帰的企て」(平凡社上掲書「西洋哲学」の項 執筆者木田元)にすぎなかったものである。このことをこそまず、プロテスタント教会の先導者は知るべきであろう。

「人々が去っていく原因を自分の中に見いだせなかった」、という中道氏の指摘は、実在論的超越神論や贖罪論や聖礼典一切を、エピステーメへの無自覚な隷属のために脱構築化しえないでいるプロテスタント先導者たちの非力と動揺と混乱と保身とを、まさに射当てているものである、とわたしは感じる。

近藤氏は、「神は超越的なお方として実在し、しかもこの世界に受肉した方として到来し、常に臨在し、とりわけ御言葉が聞かれ、聖餐にあずかる礼拝において臨在しておられます」、と断言されたが、そう断言するに先立って、なによりも氏が信仰者で「ある」ことを証しする(sie sich dem Dasein zeigen)必要がある。信仰者の語りは、すべて「証し」に根付いており、しかもそこからしか生い立たないのである。本末が転倒し、しかも切断されている、と言わざるをえない。


今は、真のユダヤ教徒イエスの信仰を深く学び直す沈思黙考の時である。そこに何が開示していたのかを、もう一度改めて深く了解する忍耐の時である。

たった150年で、神論・キリスト論・聖霊論・教会論等がエピステーメと化した、世界的にみても稀有なこの日本的状況は、近藤氏が主張されるヘレニスティックな伝道(宣教)の鼓吹で打開できる代物ではない。

そのヘレニズムとの死闘の果て磔刑となったのがイエスであったことを、氏はまったく理解されていない。

憂鬱な帰路となった。

(以上の記事は、2011.02.03、に書かれたものです)

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