2012/11/14

途切れた系譜(ハヤトロギア)

(以下の記事は、2010.11.07、に書かれたものです)

東京大学哲学会編「哲学雑誌」第121巻第793号(2006年)のタイトルは、「レヴィナス―ヘブライズムとヘレニズム」、となっている。

3編の公募論文、3編の研究論文を除いて、6編のレヴィナス関連の論文が収録されている。

その6編のうちに、「レヴィナスにおける解釈学のヘブライ的契機」、という論文がある。

執筆者は、『存在の季節 ハヤトロギア(ヘブライ的存在論)の誕生』(知泉書館 2002年)を出版された宮本久雄氏である。この著書の第四章「ハヤトロギア(ヘブライ的存在論)の胎動」が、上述の論文のベースとなっていると考えられる。


今回の標題を「途切れた系譜」としたのは、「ハヤトロギア」という名の典拠を、論文でも著書においても、氏が明らかにされていない点を不思議に思ったからである。

結論から申し上げると、「ハヤトロギア」という語の造り主は、宮本久雄氏ではなく、今や希少本となっている『オリゲネス研究』(1946年初版)を残された神学者、有賀鉄太郎氏(1899-1977)である。

特に、氏の論文集成となる『キリスト教思想における存在論の問題』(1969年初版)においては、命名の根拠のみならず、「ハヤトロギア」の瑞々しいほどの原初的展開、旧約と新約との非連続と連続への卓越した洞察、さらにはそこから聞こえてくる法制的で高圧的な存在神論(ontotheologia)への警鐘にも、与ることができる。

有賀氏は、その第一部第一章「モーセと預言者」を次のように締めくくられている。
  • 『ヤハウエ(かれは有らしめる)がエヒイエ(われ「汝とともに」有り)としてイスラエルを契約によって神の「民」(qa:ha:l=カーハール、神のみまえに招集された民)たらしめる。その契約的特殊性のうちに普遍性への指向が内在するのであるが、しかもそれは特殊性を離れた単なる普遍性ではない。言いかえるなら、普遍と特殊とが契約関係において弁証法的緊張をはらんで結合されている、そのような構造がヘブライズムの基本構造である。それがヤハウエおよびエヒイエということを論理的出発点とするものと考えるゆえに、その語根がハーヤー(ha:ya:h)であるところから、そのような発想および思考法を私はハヤトロギア(英語では hayathology)と呼んでいるのである。それは単なる言語学的概念ではなく、言語学的考察を採用しながらも主として歴史解釈学的に、ヘブライ思想に内在する原理として、それを取り出したものである。』
「普遍と特殊とが契約関係において弁証法的緊張をはらんで結合されている」、という点に注目していただきたい。

この叙述自体を問題にすれば、きわめて古典的であるとは言えるが、しかしその内容は、今もって新しく豊穣である、とわたしは感じる。

「契約関係において」、の一節の有無が、ハヤトロギアとオントロギア(ギリシア由来の推理形式による存在論)への分枝を生む契機となろう。「契約関係において」を「推理形式において(又は、概念の自己運動において)」に置換すると、叙述上はいとも簡単にオントロギアに転移する。


ところが有賀氏の洞察には、さらなる奥行きがある。


「推理」あるいは「概念」の保有者が人間であることを、疑うわけにはいかない。したがってオントロギアは、畢竟(ひっきょう)、思惟の形式を主たる外殻とせざるをえない。

有賀氏の命名されたハヤトロギアの要(かなめ)には、「契約関係」がある。その一方に、イスラエルの民、つまり人間がいる。

その人間は、いわば思惟する人間ではなく、「汝を有らしめ、契約により汝を招集し、汝とともに有る」、と呼ばわる神の包摂を第一義的に受容しながら、なお特殊性を維持せんとする人間である。

つまりハヤトロギアとオントロギアは、矛盾・対立・相対的な関係ではなく、ただひとえに集合関係にあるもので、しかもハヤトロギア ⊃ オントロギアにはなりえても、ハヤトロギア ⊂ オントロギアにはなりえないものでもある、ということになる。

有賀氏は、次のように述べられている。
  • 「キリスト教思想がキリスト教思想である限り、ハヤトロギア的なものが殆んど全くオントロギアによって置きかえられたと見える場合にも、その基底にはハヤトロギア的なものが働いている筈である。つまり、キリスト教的オントロギアというものが有りうるとすれば、それはただハヤ・オントロギアという形においてのみ可能であろう。従ってまた、キリスト教神学においてオントロギアをどこまでも貫徹しようとすることは神学を非キリスト教化する危険を冒すものであることに気付かれなければならない。このようなキリスト教思想の二重構造を充分に把握することが、そしてハヤトロギア的なものの優先または根源性を承認することが、われわれ神学的思考に正しい出発点を与えるものであると思う。」(上掲書 第一部第六章「有とハーヤー」)
イエスの生涯の時のなかにいたアレクサンドリア(エジプト北部)生まれの最初で最大のユダヤ人哲学者フィロン(紀元前54?~25?-紀元後13?~45?)に関する有賀氏の考察と洞察が、以上の言説を揺るぎないものとしている(上掲書 第一部第五章「神の無名性について―特にフィロンにおける―」)。

また有賀氏は、ハヤトロギアの「弁証法的緊張」の重要な媒介として「聖霊体験」についても考察されているが、この点に関しては稿を改めなければならない。


さて、冒頭紹介した宮本久雄氏は、なぜ有賀鉄太郎氏の業績に言及されなかったのであろうか。。。

おそらくは、ハヤトロギアの一方向的な集合性が指し示す歴史的射程のなかに、ヘブライズム的キリスト教とヘレニズム的キリスト教の逆説的進展、あるいはトーラー(律法)をめぐる諸派の乱立等を予知されていたのであろう、と推測する。その混沌のなかからハヤトロギアを抽出することは、現代世界のキリスト教的状況にも、なにがしかの衝撃を与えることになるからである。

宮本氏が、フランスのユダヤ人哲学者レヴィナスのタルムード解釈(トーラー釈義)に迂回され、ハヤトロギアを他者理解(他者論)の土壌に限定して論を展開されたのは、無理からぬ話ではある。有賀氏のように一人山の尾根に立つのには、それなりの覚悟が求められる。


とは言え、ご両人の執筆に等しく見られる点もある。それはハイデガーである。

有賀氏が、オントロギアの限界性を指摘した人物としてだけの引用であるのに対し、宮本氏は、フッサールやハイデガーを批判的に継承したレヴィナスの見解を踏襲する文脈において、言及されている。
  • 『表象する志向的意識の能作自体について影のように寄り添う意識、志向的潜在的な注視の対象をもたない純粋に同伴する意識、つまり「非志向的なもの」が了解される。それはいわばハイデガー的意味で被投された受動性であり、能作を対項とするような受動性と異なる。いかなる志向も対象もなく、したがって現前の消滅なのである。・・・中略・・・レヴィナスは自分が志向性の起源・根拠でないことを、「意識という起源なき無起源」と呼ぶ。そこから反志向性を行使する現象とは、私という能作、志向的意識に拠ることのない、他者に属する一切の現象であると言える。・・・中略・・・その際私の根本規定は、他者がそこに介入する受動性の受動性、能作に決して転換しない受動性に外ならないのである。したがって非ないし反・志向性は、存在の現出の消滅、つまり存在とその自同の突破を意味する。』(上掲論文))
簡単に申し上げれば、危機(クリーゼ)に遭遇した時に体験する自我崩壊の瞬間を捉えようとされたものである。

それにしてもなぜこれほどに難解な叙述となったのであろうか。

一言だけ述べると、フッサールのノエシス(多機能な意識作用)・ノエマ(ノエシスによるそのつど的な世界構成)構造が、ハイデガーの時間性から時熟する「気分」・「了解」の世界開示性のなかにおいては、その形而上学性がすでに脱色され溶解していることを見落とされているからであろう、と感じる。

フッサールとハイデガーを少なくともどこかで類化していなければ、「いかなる志向も対象もなく、したがって現前の消滅なのである」や、「私の根本規定は、他者がそこに介入する受動性の受動性、能作に決して転換しない受動性に外ならない」などとは、断言できないはずである。

ハイデガーが捉えた「気分(了解)」の世界開示性から言えば、「いかなる志向も対象もなく」、「能作に決して転換しない受動性」などは、ただの思惟の組み換えにすぎないものである。

世界の端末において遭遇するものが安定的な日常であろうと、非日常的な危機(クリーゼ)であろうと、「気分(了解)」の世界開示性は、他者を含むそれらすべての出来事に先行して機能している、とわたしは感じている。

ただしその先行性は、自我崩壊の危機(クリーゼ)に媒介されなければ、いつまでも気づかれずに「ある」。しかしそれでも、命ある限り機能する。それがハイデガーの洞察した人間、つまりは「現存在(Dasein)」である。


他者理解(他者論)の可能性は、「気分(了解)」の世界開示性に担保されている。それに反逆するのは、先行する「気分(了解)」の導きの糸をみずから切断せんとするたぐいの解釈の派生態の氾濫である。神学といえども、例外ではない。

この分断状況は、意志や努力、制度や政策や法の整備等で克服することはできない。

有賀氏は、「聖霊体験」について次のように述べられている。
  • 「それは思想以前のものでありながら思考を促し、もろもろの概念を招き入れ、また結合しつつ、新しい意味を盛る思想連関を生み出す原動力をもっている。それは、そのような性格の構造を持つ体験である。」(上掲書 第二部第二章「聖霊体験の分析」)
みごとな叙述である。


わたしたちは、喩えてみれば、「紙風船」の時空間の中にいるようなものである。

「紙風船」のふくらみ具合は、種族民族により異なる。先進国になればなるほど、「紙風船」はけだるくたるみ、途上国であればあるほど、そのふくらみ具合は緊張を増す。

とりわけユダヤ民族は、いにしえより幾度となく、「紙風船」の破れを体験してきている。「紙風船」の破れた向こう側にユダヤ民族が戦慄とともに了解したもの、それが「永遠」である。そこから、「紙風船」の被造性を洞察したのであろう。だから長きにわたる迫害のなか、国なくしても人があったのであろう。その秘蹟が、「トーラー(律法)」であり、「タルムード(律法釈義解釈)」である。それにより了解と解釈の齟齬・背反・切断を奇跡的に回避し続けてきたことが、まさにユダヤ民族の卓越性なのである。

この点に無関心のまま基督信仰を語ることは、有賀氏が指摘されているように危険である。

さて、先進国たるこの島国はどうか。。。


(以上の記事は、2010.11.07、に書かれたものです)

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