2012/11/24

「永遠」って何?何?何? (2)


(以下の記事は、2010.10.07、に書かれたものです)

シモーニュ・ヴェイユ
Simone weil
「わたしたちの内部で、究極性とつらなっている欲求の尖端を現在にあてがってみれば、それは現在をつき破って、永遠にまで達するであろう。」(シモーニュ・ヴェイユ『重力と恩寵』田辺保訳) 
1943年、34歳で夭逝(ようせい)したユダヤ系フランス人女性思想家の断片(アフォリズム)である。

結核の進行にもかかわらず、食物摂取を拒否しての餓死であった、と言う。受洗したという意味での基督教信徒ではない。

信仰の巨塔から一歩も出でず、時に安穏と、そして時に嬉々として「永遠」を語る者は多い。それもよかろう、とは思う。しかしその一方でわたしは、それらのほとんどに、浪漫的憧憬物に仕立てられた「永遠」の仮借なきまでの造反をも、その背後に感じている。

どこで感じているのかと申し上げると、「理性(die Vernunft)」ではもちろんなく、わたし自身の「気分(die Stimmung)」においてである。


さて上掲のシモーニュ・ヴェイユの断片には、浪漫的憧憬のかけらも認められない。それは、彼女が一瞬間であれ、未来の到来を拒絶してしまっているからである。安穏嬉々として未来に転写された「永遠」の軽薄さとその欺瞞を、彼女の「気分」が凝視しているのである。

彼女は「永遠」それ自体を語ろうとはしない。そうではなく、「永遠」が開示する「契機」と「場」とその「衝撃」を指示しようとしているだけである。なぜか。。。皆が顔をそむけ、その「契機」に怯(ひる)み、その「場」と「衝撃」から逃れようとするからである。集まるのがはげ鷹(マタイ24.28)だけであることを、あまりにもはやく先取りするからである。

そうした平安な時間への投身の偽装を、若くして彼女は見抜いていたのであろう。

「永遠」を論ずる者は、彼女との対決を経ていなければならない。彼女の指示せんとした「契機」と「場」と「衝撃」を看過した「永遠」は、水平化された時間に放流されたただの慰謝、ただの玩具にすぎない。


彼女が指摘した「究極性とつらなっている欲求」とは、未来を展開させない、あるいは未来の到来をかたくなに拒否する「欲求」それ自体である。彼女自身は、極度の「失望」・「絶望」・「疲労」・「苦痛」などを列挙している。臨界点に達せんとする「欲求」である。その意味において、「破壊的な衝動」「破壊的な情動」「破壊的な気分」、と換言してもよかろう。これらが「契機」となっている。

ところでそれらは、何を破壊するのか。。。まずは、水平化された安定的な時間に憩う未来時間である。そしてそれへの信憑である。

その出来事を通じてのみ、「今」という一点に凝縮された「場」は孤絶しながら立ち上がる。そして筆舌しがたい予兆を伴いながら、今しがた未来を飲み干した「欲求」は、あろうことかさらにその「今」自体を内側から過度に圧迫しはじめるのである。

彼女が、「欲求の尖端を現在にあてがってみれば、・・・」、と書き残したのは、おそらくそういう「体験」の事後的内省(脱体験化=経験化)なのであろう。

しかしながらいったいこれら狂おしきまでの「欲求」は、何を渇望しているのであろうか。

単刀直入に申し上げると、「奇跡」、それ自体である。

「奇跡」を渇望せざるをえない究極的な欲求が「今」を自爆させ、しかもその「衝撃」に耐え生還しえた者のみに付与されるもの、それが「永遠」である。それ以外の「永遠」はない。

「それは現在をつき破って、永遠にまで達するであろう」とは、「体験」を背負ったシモーニュ・ヴェイユ不動の確信である。そしてそのように意志し、最後を閉じたのである。イエスの最後と、ほぼ同じ年齢であった。


よくご存知の方々もおられよう。マルコ「福音書」5章(マタイ8.28-34 ルカ8.26-39)に残された狂人「レギオン」の記事は、以上のような深みにおいてイエス自らが、レギオン救済の「触媒」になった出来事なのである。その「前人称性」に身を後退させたイエスの目撃者がペトロである。そしてイエス死後、そのペトロの秘書として「福音書」を編んだのが、マルコなのである。コイネー・ギリシア語で書かれた教団教書であったにもかかわらず、なおそこにイエスの信仰のアクチュアリティとその存在機序は付着している。

「触媒」に身を後退させる瞬時のイエスの判断と仕草には、レギオンが奇跡を渇望していたのかどうかへの了解が先行していなければならない。その了解が可能であったのは、イエスがすでに、上述したような「永遠」に接触していたからである。

このイエスの存在論的な機序を踏まえずに、悪霊追放者・解放者・救済者イエスを強調し、さらには教会権威にまで糊塗するとなると、またぞろ51ヵ国を相手にした侵略戦争を聖戦などと言いふらして遁走したがごとき似非指導者、似非説教者が姿を変えて出てくることにもなろう。いやもうすでに、痩せこけたパイの争奪戦は始まっているのである。

(以上の記事は、2010.10.07、に書かれたものです)

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