2011/12/01

練達は影?

「ローマの信徒への手紙」5章3節4節に、四つの言葉が並べられている。
  • 苦難ー忍耐ー練達ー希望(新共同訳)
言うは易し。。。である。

その意味から、パウロ(とおぼしき人)の叙述は不親切である、と言える。

なかでも「練達」と訳されたコイネーギリシア語、
  • δοκιμή(ドキー;下線部にアクセント)
に施された近現代英語訳の傾向をみれば、その不親切さが分かる。

Experience派、Character派、Proven character(or Approvedness)派などが、その代表的なものになる。ついでながら、ドイツ語Bewährung(証明、実証)、韓国語연단(鍛錬)などもある。


残念ながらいずれも、帯に短したすきに長し、の感がする。

これでは、芥川にチクリとやられても仕方あるまい。
  • 忍従はロマンティックな卑屈である。(「侏儒の言葉」より)
芥川の感性は、「偽」信仰者の存在機序をみごとにとらえている。

そこで。。。だが、


苦難ー忍耐ー練達ー希望を、水平(直線上)に並べられた四つの「積み木」、と想定してみてはどうだろうか。。。

ただし、ミンコフスキー的時空間(「積み木」相互間に自動発動する因果的思惟)の干渉をしっかりと遮断しておく必要がある。

そうして、四つの「積み木」をしばらく凝視する。

すると、「苦難ー忍耐」・「練達ー希望」のそれぞれの項目間に成立しているかのように見える因果は、何某かのアナロギーに誘導された読み手側が、遅ればせながらに転用せざるをえなかった思惟の欠片にすぎない、ということがほどなく分かってくる。

さらに凝視をつづけると、「苦難ー忍耐」の背面に、荒ぶる内的時空間の這うほどに夥しい数の往復路が、また「練達ー希望」の霞みかかる奥行からは、方域を異にして生成されてくる内的時空間のうなるような新道とが、パウロなる人物のどの言説にも先行してすでに同期現象していたことも、感じられてくる。

なおさらに凝視を保つと、そのような「往復路」と「新道」との転換点を構成するはずの内的時空間が、破砕してしまっていることにも気づく。翻訳の揺れは、おそらくこの一点に由来するものであろう、とわたしはわたしの体験を通し感じている。


ところでこの「内的時空間の破砕」とは、内的時空間の「無」を指示する表現ではない。内的時空間がエネルギアを保持したまま、しかし安定した「像」を構成することなく「滞留(旋回)」し続ける、いわばデモーニッシュな出来事の代理表現である。

この「破砕」状況からの脱出者の一人は狂人である。そしてもう一人が、いわゆる聖人(聖徒)となる。

圧倒的多数の人々は、この出来事に行き着くはるか手前の往復路のどこかでとりどりに手打ちしてしまう。ただただ怖ろしくて近づけないのである。人間の根源的な不安が自身を標的としていることを暴露したのは、ハイデガーであった。手打ちした人に、非はまったくない。


蓋(けだ)し、たった一日にして、この世界の色がすっかり変わってしまうがごとき嘘のような事実も確かにある。

そのような人間の事実と傾向と確信を、奇しくもあのニーチェが喝破していたこと、そのことを少しは想起してみてもよいのではないか、とわたしなどは思ったりする。レクラム文庫の原文に木場深定氏の翻訳を併記してみたい。
  • Es giebt eine Unschuld in der Lüge, welche das Zeichen des guten Glaubens an eine Sache ist.

    嘘のうちにも無邪気がある。それが或る事柄に対する立派な信念の徴である。
下線は、わたしの所作である。

わたしは前置詞 an を、木場氏のようには読んでいない。全体を意訳してみると、
  • 嘘のなかに感じられる無邪気というものがある。その事象は、その(人の)信心(信仰)が、ある出来事に触れたまま生い立ってきていることの、敬服すべき証しでもあるのだ。
となる。

前半部が平面的な事象、後半部はニーチェ特有の三・四次元的現象過程(内的時空間)への洞察である。

ニーチェは強烈な反新約聖書派ではあったが、同時に、真(まこと)の信仰者の存在機序をも逆探知していたと思われる。


さて、この「ある出来事」を既述の「粉砕(滞留)した内的時空間」に重ね合せると、Powerlessness(無力)な魂と、手を出せずにただ眺めては、敏感なキネステーゼと枯渇した認識だけを機能させている純粋自我だけが、あらあゆること・ものから全く取り残されてしまったかのように見えてくる。

凡そ人間は、このようなデモーニッシュな出来事に長時間あるいは長期間、発狂することを除き、耐えることができないようになっている。

そこで何某か錨のようにずっしりとした「抵抗」を渇望せざるをえなくなってしまう。。いや、本当は何でもよいのだ。道端の石ころでも、枯草でも、はたまたゴミ屑でも。。。十字架である必然などどこにもない。無構成性を唯一の徴(しるし)とする破砕した内的時空間は、その必然を拒絶する次元においてしか開示しないからである。


新道への脱出が成功するかどうかは、残念ながら誰にも分からない。まして脱出の瞬間など、述べられようはずもない。

だからこそ、事後的なものではあるが、稀有な成功者の貴重な証し(語り、体験談)が、「無邪気な嘘」として、邪気に充ちた偽信仰者によって時にないがしろにされ、ときには意図的に放擲されたりもする残酷が、宗教界からなくならないのである。キリスト教も例外ではない。


キリスト教とイエス「の」信仰とは別物である。

このことをアドミッションしなければ、日本のキリスト教教界は、さらなる衰退の一途をたどるであろう。金看板をはずすのに、何をそんなに怖れているのか、わたしにはいっこうに分からない。思わず邪推してしまうほどである。

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